2013年6月18日火曜日

詩歌は性淘汰で発達した

男性が異性を獲得するために言語が発達したのであれば、その言語能力をみせびらかすために生まれた最たるものが「詩」である。

詩は韻律とリズムを持ち、話し手に対して制限を設ける。

詩を作るには、ある意味を表す単語を見つけるだけではなく、正しい音数で正しく韻を踏んでつくらなければならない。

言語能力を十分に駆使できる人だけが韻律詩を書くことができる。

ラップのミュージシャンも韻を踏んで歌をつくっている。

日本語の詩歌である和歌(短歌)、俳句は正しい音数(リズム)制限しかないので、さらに韻を踏まねばならない詩型式よりは作るのは簡単ではあるだろう。

現に俳句なんざ、一説には数百万人の実作者がいると言われている。


うまい散文が話者の言語的能力のよい指標となり社会的地位を向上させるなら、うまい韻文(詩)は、さらによい指標となり社会的地位の向上に貢献する筈だ。

一般論ではそうかもしれない。

確かに欧米では詩人の方が小説家より尊敬されていると聞く。

しかし、現在の日本では詩人、歌人、俳人の方が小説家より尊敬を集めているという話はとんと聞かないし、そんな印象もない。

それは、日本の詩が上記の理由で、高度な言語能力が駆使できなければ作れないという質のものではないから、ということが原因しているのであろうか (^ ^;


しかし、日本でも歌を詠む能力は平安時代には貴族の必須の教養だったし、恋愛にも必須の能力だった(「詩=性淘汰」説にドンピシャ)。

戦国武将も多く辞世の歌を残している。

「夏の夜の夢路はかなきあとの名を雲井にあげよ山ほととぎす」
  柴田勝家

柴田勝家さん


かつては、詩歌に通じていることは権力者のたしなみであった。

今の日本の政治家にそんな風流を望むべくもない、か(笑)

別の世界線の柴田勝家さん
織田信奈の野望

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