芸術作品はそれを制作した作家に属するのか?
これは法律上の所有権の話しでは無論ない。
作品が一度公にされれば、その解釈については言葉通り「オープン」になる。
例えば、このパウル・クレーの絵
これをどう見るか、これを見てどのように感じるか、何が書かれていると感じるか。
それは人それぞれで異なる。そしてその感受性の多様性が芸術の豊かさをもたらす。
鑑賞者にオープンに開かれていることが作品の価値を高める。
その作品、作家に付随する情報に関して知っているか否かは二義的な問題だ。
もしクレーがこの絵は『宝物』という題名で、私の宝物を描いた、と言ったとしても、それに縛られる必要は本質的にないのである。それを鑑賞の参考にすることはあっても。
パウル・クレーは好きな画家の一人、
この絵も純粋にいろいろな色のハーモニーを堪能すればよく、この絵の題名『花ひらいて』はひとまず横に置いておいてもその味わいを玩味することはできる。
16日、畏敬する俳人である加藤郁乎が亡くなった。
俳句は季語を入れて五七五でつくる、と学校で教えるが、季語を入れて作る、というのは、そういうことを唱えた人もいる(高濱虚子)という程度で、それが俳句のルールではないのである。
咳をしても一人 尾崎放哉
これも俳句。季語もなく、自由律と呼ばれ五七五でもない。
絵画に千差万別の流儀があるように、俳人も個々の信条に従っていくつもある流儀の中から自分に一番しっくりするものを選ぶ。
ちなみに虚子の唱えた花鳥諷詠俳句観に共感して俳句を作っている諸氏は自らの俳句を「伝統俳句」と号している。彼らは自虐的に「伝統俳句」と言っているのでも、ふざけて言っているのでもない。本気で言っている。
伝統芸能という言葉はあっても伝統芸術という言葉はない。
本来、芸術は伝統化してはいけないものであり、「伝統」と「芸術」は相容れないものである。
つまり、「伝統俳句」と自称しているということは、自分らの俳句は芸術ではないということを宣言しているに等しい。
芸術とは常に新規さを求めるものである。同じ作風をなぞることを信条とするものを我々は芸術とは呼ばない。それがパロディーならいざ知らず。今、モーツァルト風の音楽を書いても小器用ですね、と言われるだけだ。
芸術の定義からすれば、アバンギャルド(前衛芸術)こそ(この言葉が死語かどうかはともかく)、芸術家が目指すべき地平である。
ピカソが絵画におけるアバンギャルドの代名詞とすれば、俳句のそれは加藤郁乎である。
かげろふを二階にはこび女とす 郁乎
メタフィジカ麥刈るひがし日を落し
とりめのぶうめらんこりい子供屋のコリドン
牡丹ていっくに蕪村ずること二三片
粟の花のててなしに来たのだ帰る
アバンギャルドを具現化した郁乎俳句は約半世紀経っても衝撃的であり、俳句の一分野(上述のように伝統芸能を自負している俳句集団もあるし、ひとくくりに俳句とは、とは言えない)が芸術足り得るのかという問を今に投げかけている。
郁乎が亡くなり、郁乎の俳句は鑑賞者へバトンを渡された。
それは気概という名のバトンである。
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