(いつも趣味に走り過ぎじゃね、という声は無視)
吉田秀和氏が5月に亡くなった。
彼によって音楽により引き込まれた人は多かろう。
かく言う私もその一人で、モーツァルトの600を超える曲をその生涯の最初から通しでラジオで紹介するという彼の番組「名曲のたのしみ」を聞き、モーツァルトが好きになった。
5才そこそこのモーツァルトの微笑ましい音楽に触れる機会はめったになく貴重な番組だった。
すでにロココの何たるかを分かっているようなモーツァルト然とした心地よい曲だ。
到底、5才の作とは思えない。
モーツァルトの場合には、音楽家であったお父さんがモーツァルトを売り込むためにもそれを出版もし、手元に残していたことは後世の者にとっては幸いであった。
片や、例えば、完璧主義のブラームスにあっては若書きの習作は破棄され後世に残っていない。
それを作家の潔い態度と受け取る向きもあろうが、その作家がどのように作風を確立したかを知りたい者にとっては非常に残念である。
後世のものにとって、それが習作であるかどうかは言われなくても分かるし、習作にも習作のよさが、その作家の個性の萌芽がみられて愛すべき作品であると思われるものも少なくない。
現在、駅前の新設の静岡市美術館で森村泰昌展をやっている。
彼の代表作だが、彼が今に辿り着くまでの苦闘の歴史を紹介していて興味深かった。
特に今回のテーマは「まねぶ」。
どんな芸術家であっても、それまでの芸術(作品)と無縁の存在ではいられない。
子供が言葉を覚えるように、まずは先行する作品の模倣から全ての作家は始まる。
その中から個性が芽生える(それが世間に認められる個性か否かは能力と運命)。
ピカソもいきなりピカソになったわけではない。
(参考)広告代理店もジョジョ立ちをまねぶ。
ある作家の作品をその作家の履歴という文脈から切り取って独立させて翫賞することの是非はさておき、その作家の作品をより深く味わいたいのであれば、切り取って無名性で作品を鑑賞することはできない。
昔、詩は無名がいい、と言った俳人がいたが、その意味するところはまた違う。
作品鑑賞に無名性は味気ない。
作家のみなさん、習作も是非残して下さいね!!(笑)
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