2013年3月7日木曜日

1980年代当時の愛煙家 vs 嫌煙家

さらに昨日のつづき

そして、愛煙家は嫌煙権を振りかざす非喫煙者に対して、逆ギレの様相を呈していた。

嫌煙家作曲家の中田喜直(「雪のふるまちを」、「夏の思い出」など)

「飲料水や食物に毒性のあるものを投入することが悪であるのなら、みんなが吸っている空気を汚すのはもっと悪いはず。そういうことがわからない人が多いので嫌煙権という言葉ができたのだが、それは言葉の問題ではなく、常識の問題といえよう」


一方、愛煙家作曲家の團伊玖磨

「身体に悪いなどと言い出せば、世の中の全てのものは身体に悪い。この問題は市民生活のマナーの問題であり、差し止めとか慰謝料とか裁判に持ち込むことがおかしかったと思う。一斉禁煙などはファシズムにつながるのではないか」


とまたまた、図らずも愛煙家の本音を語ってくれている。

「身体に悪いなどと言い出せば、世の中の全てのものは身体に悪い」とは開き直るにもほどがある物言い。

「市民生活のマナーの問題」がちゃんとできてなかったからこそ嫌煙運動が起こった。

裁判に持ち込まなかったら、いつまでも嫌煙家は泣き寝入りだっただろう。こんな愛煙家がいる限りは。


追いつめられた愛煙家は逆に、嫌煙権運動をファッショだとまで言う。


中田氏はこの團氏に、

「團伊玖磨氏も随分考え違いをしているようだ。もし團氏が列車で長時間旅行していた時、隣の席の人がラジカセでガンガン音楽を鳴らしたら、やめて欲しいとか、イヤフォーンできいてくれと言うだろう」

と反論している。

それにラジカセで音楽を聞かされても苦痛だけで肺がんにはならないが、タバコの煙はそうさせる。健康を著しく損なう有害性がたばこの煙にはある。


愛煙家の悪あがきは今聞くと見苦しい、の一言だ。

真のファッショとはこういうものだ!
ギレン・ザビ



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