1980年に訴訟団が嫌煙権を裁判所に持ち込むと、それに対して愛煙家の学者や、いわゆる文化人による「嫌煙権叩き」が繰り広げられた。
今からみると、勝手な意見ばかりでとても面白いのでいくつか採上げる。
① 歴史物をよくする作家の澤田ふじ子
「わたくしはいつも、健全な市民の良識という美名にかくれた市民運動の暴挙を感じてしかたがない。彼らは禁煙者に対して、それを嫌う権利や自由があってもいいという。だがわたくしをふくめた愛煙家たちは、それぞれにたばこを有害とは認めてながらも、無駄のなかにふくまれている大きな効用を感じ、紫煙をくゆらせているのである。」
「嫌煙権運動の伸長を、自己主義的社会のもたらせたものであり、精神文化の停滞と卑小が、原因にあると思っている。」(1984年5月20日 赤旗新聞)
これは自分たちの権利はあるが、受動喫煙による他者への痛みがまったく感じられない、「精神文化の停滞と卑小」の持ち主としか言いようがない。受動喫煙による有害性に全く触れていない。
② 評論家の小室加代子
職場で同僚の吸うたばこの煙に悩んでいるOLの人生相談で
「そんなにいやなら、会社をやめたらいいのです。隣のオジサンは、ニコチン中毒であろうとあなたよりは会社に貢献してきたのです」
「間接喫煙ぐらいでシボむような花ならポイですよ」(1983.10.11読売新聞)
これも受動喫煙による有害性に全く触れていない、一方的なひどい物言い(笑)
③ 名古屋大学民法学者の加藤雅信
「嫌煙まではともかく嫌煙権まで言いたてられると、私個人は何か違和感を覚えないでもない。」
「たばこを喫いたい人とその煙を受けたくない人との双方が同じ場所にいた場合に、双方をともに満足させる方法はない。たばこを喫いたい人が他方に迷惑を掛けた上で我を通すか、隣人の方が喫いたい人の嗜好を犠牲にしたうえで我を通すか、いずれかであって、いわば我の張り合いにすぎない」(1985年5月判例タイムズ)
これも受動喫煙による有害性に全く触れずに、お互いの権利は同じだと主張している。
他者の健康を害まで、主張してもよい権利など民法で許される筈もなかろう。
彼らの無知蒙昧さを現在嗤うことは簡単であるが、要はこれが当時の愛煙家の主張だったのだ。
ガンダム、これを知らぬ無知を笑うことは簡単だが、敢えて許そう笑
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